第18号 田村幸樹さん (兵庫県神戸市) 2007年01月18日取材




その日は1月18日で、12年前の昨日(17日)はあの震災が起きた日でした。
私は神戸を訪れるのは2回目で、13年前には三宮の商店街を歩いていました。

だから、震災の恐ろしさや悲惨さをテレビや新聞等のメディアを通してしか知りません。
今までに被災された方と面と向かってお話をしたことも一度もありません。初めてです。

だから、とっても不謹慎とは思いましたが、少し嬉しいという気が先立ちました。
そして、記念すべき第18回目の砂金の人は、有限会社ジョブの田村幸樹さんです。

いい? 絶対なんとかするはずや!
田村幸樹、47歳か48歳。若作りです。
この髪は地毛で白髪は1本もありません。

だから、なんにも考えていないからだ。
何不自由なく楽して生きてきた証拠だ。

と、今さっきまで思っていたんですが、
なかなかスリリングな短い人生でした。

まだ生きているけど。本当に嫌なのは、
田村さんと並ぶと5〜6歳も若い私が、

異常におっさんに見えてしまうことです。
最近、顔にできたシミが気になるのよね。

そう、激動の半生をバシッと訊きました。

顔のシミくらいとみなさんおっしゃいますが、私の武器は甘いマスクです。 だからと言って、マスクの裏に砂糖を塗っている訳ではありません。ばか。 田村さんと私が知り合ったキッカケは、忘れました。 多分、メールをくれたかなんかだとふと思いました。 そして、仕事や家庭や震災や将来のことを切々と語っていただきました。 1月18日(木)に、神戸市にあるオシャレな工房でお話を伺いました。 すっごくシャレた工房で〜す♪ でも、案の定、机の上は汚いで〜す♪ 田村さんは鞄職人です。しかし、ちょっと前までは「鞄職人」と呼ばれることが、 たまらなく嫌いでした。自分では「マイスター」とか気取って名乗っていました。 でも、今ではなんでもOKです。鞄を作ることにはまったく変わりないんだから。 田村さんは関西学院大学に通っている4年間に20種類以上のアルバイトをして、 勉強はしませんでした。と私は思う。そのアルバイトの中では鞄屋が面白かった。 3ヶ月くらいの予定が4年近くも居座ってしまいました。だから、勉強はできん。 そして、大学をなんとか卒業するとすぐに鞄の問屋を起業しました。 小売店とメーカーの橋渡しの仕事です。でも、田村さんは熱いです。 メーカーにはとっても嫌われるほど細かい注文をつけました。かなりしつこい男です。 するとメーカーは「ゴチャゴチャ言うんなら自分で作れや!」と関西弁で言いました。 それから25年の歳月が流れました。終わり。 あ、 田村さんはたった一つのミシンでたった一人で鞄を作りました。修行はしていません。 だから、今でも自分の作り方が正しいのかどうかなんてまったく分かっちゃいません。 でも、心から感動する素晴らしい鞄ばかりです。見たことないけど。 一から始めてバブルの景気も味わって本当に多くの経験をしました。
田村さんが独立してから13年目の
1995年1月17日。まだ寒い朝。

とっても激しく長く揺れました。
そう、それが阪神大震災でした。

場所は変わって岐阜。

私は県営アパートに住んでいました。
揺れが長かったので本当に怖かった。

生まれたばかりの娘も寝ていました。
私の住んでいた辺りは震度4でした。

でも、何事もなく会社に行きました。
神戸の惨事を知ったのはお昼でした。
働く環境としては、とってもいい空間ですねぇ〜
田村さんの工房も被害に遭いました。工房はマンションの一階の中央に位置していました。 その中央の工房に左右から火の手が迫ってきました。でも、なにもすることができません。 水がないんです。井戸の水も枯れ果てました。だから、消防車が来ても意味がありません。 ただただ燃えるのをジッと見守るだけでした。そのとき若い男たちが集まって工房の中の ミシンだけでも運び出そうと言ってくれました。大きなミシンをみんなで運び出しました。 それらは今でも使っています。工房は3日間、燃え続けました。田村さんは見守りました。 やっと消防車が来て火を消し止めました。一週間後、田村さんは焼けた工房で働きました。 泣いても叫んでも、また悔しがってもなにもよくはなりません。今までどおり働きました。 すると「鞄を売って下さい」と被災に遭った人々が訪れました。でも、在庫は燃えました。 残った少しの在庫は水に浸かってしまいました。約400万円分の鞄が水に浸かりました。 感動をみなさんに発信したいです! お客さんの喜ぶ顔が見たいです! しかし、それでもいいから売って欲しいとみんなは言いました。入れるものがないんです。 炎でなにもかもが焼けてしまって残った身の回りの小さなものを入れる袋類がないんです。 田村さんは、例えそうであっても水に浸かった革の鞄を売る訳にはいかないと思いました。 田村さんは「明後日、この店の前に置いておくから持って行って」とみんなに言いました。 そこに殺到して鞄を奪い合う姿が見たくなかったので、自分がいない日を見計らいました。 しかし、この状況に便乗して鞄を売りに来る他県の同業者たちがそこかしこに現れました。 私は田村さんにそれをどう思うか訊ねました。すると「商売だから決して悪くはないけど、 同じ鞄を扱う者として恥ずかしいし情けないし悲しい」と憤りを隠せない声で答えました。 自分の想いをカタチに変えたいです! 忙しくてそれどころじゃないのよ! 実は、田村さんは死のうと考えていました。でも、それは震災の1年前のことでした。 見事にバブルがはじけて資金繰りが苦しくなりました。そう、借金が脹らむ一方です。 先がまったく見えなかった。どうしていいのか分からなかった。本当に死にたかった。 田村さんは「縦か横か考えたんだ」と言いました。お腹を切ろうと思ったらしいです。 文学部卒の田村さんは、三島由紀夫のような割腹自殺を冗談ではなく考えていました。 1年間も悶々としていました。当然、仕事に身が入らないのでさらに悪くなりました。
いざ死のうと思ったそのときに、
あの阪神大震災が起きたんです。

今思えば、あの震災がなかったら、
田村さんは居ないかも知れません。

「まるでトランポリンだよ」
「家の中が宙に浮いてたよ」

田村さんは目を丸くして言いました。
今でもその光景が焼きついています。

トラウマではありませんが、
記憶の一頁から抜けません。

助かったミシンで作った鞄です→


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その朝、田村さんは自宅のマンションから1階に降りて、周りの景色を見渡しました。 なにもありません。そこにあるのは瓦礫の山です。昨日のビルが今朝にはありません。 一瞬、言葉を失いました。なにがどうなったのか、なんでこうなったのか。 見慣れた景色がもうそこには存在しませんでした。田村さんは思いました。 「チャラや。。俺の借金、これでチャラになったんや!」そう思いました。 不謹慎だと思われますが、これが経営者の偽らざる素直な気持ちなんです。 田村さんは、神戸だけでなく兵庫、近畿、そして日本国中が同じ状態だと思いました。 これで全世界が平等に1からスタートや!みんな一緒に1から一斉にスタートなんや! そう思ったのも数時間だけでした。田村さんは「あかん。借金がチャラにならへんわ」 そう気づきました。申し訳ありません。上記の[工房が被災した]行にお戻り下さい。 頑張りました。震災から一週間後には焼けた工房で今までよりもさらに頑張りました。 震災が起きたら死ぬことなんか考える余裕がなくなりました。生きたいと思いました。 田村さんは「今まで追い込まれてもいないのに勝手に自分で自分を追い込んでたんや。 震災が起きたらそんな余裕なんてあらへんわ」と目を見開きながら力強く言いました。 田村さんは「あの震災に遭ったからこそ今の自分があるんやわ」と言いました。当然、 災害はない方がいいに決まっています。でも、田村さん自身には一つのキッカケです。 あれがなかったら恐らく腹を割いていました。あれがあったからこそ今、居るんです。 田村さんは「身内が亡くなっていないからそう言えるんだろうけどね」と続けました。 震災は一つのキッカケでした。震災前も震災後も同じように頑張っていました。でも、 震災後に道が拓けたその訳は、震災が今までの考え方の方向性を変えてくれたんです。 レトロなミシンです。メトロは地下鉄です えびせんでも作れそうな機械です! いくら一生懸命に頑張っても、進む方向が間違っていれば頑張るだけ悪くなるんです。 それを震災は田村さんに教えてくれました。田村さんは「悩みなんて大したことない。 なんとかなるんじゃなくてさ、絶対になんとかなるようにするはずや」と言いました。 震災を受け入れて必死に頑張った。すると今までの方向を転換することができました。 また、それは人間の本当の姿も教えてくれました。近所に一軒の定食屋がありました。 食う物がなくて困っている人におにぎりを売っていました。いつもの2倍の値段でね。 その定食屋はすっごく儲かりました。でも、今は当たり前のように潰れてありません。 窮地で見た人間の業(ごう)でした。また、今の仕事に関する方向性も変わりました。 思いっ切り頑張れば月商1000万円まではできる。しかし、 どこかで無理をするから絶対に長くは続かないと思いました。 「うちは月商500万くらいがベスト。でも、人を増やすから800万までかな」と、 田村さんは赤福を食いながらそう言いました。また、人の採用の仕方もユニークです。 今でも毎月2〜3人は「鞄職人になりたい」とやって来ます。そのときに田村さんは、 「1年間は無給だよ。それでもいいならね」と言って残った人たちが写真の3人です。 右下の俯いている女性は田村さんの奥さんです。私のことが嫌いなんです。しくしく。 「うちは分業制じゃないから全部自分で作るけどデザインがよくないとダメなんだよ」 続けて「デザインは自分の考え方なんだ。だから、それを発信する人になって欲しい」 と熱く語りました。自分で考えて自分で発信できる人になって欲しいと望んでいます。 それは自分の息子と娘にも言えることです。田村さんには2人の息子と娘がいますが、 血を分けた実の子ではありません。奥さんと前の旦那の子です。でも、いい親子です。 少し前にその前の旦那が亡くなりました。奥さんと娘は葬式に参列しました。しかし、 息子は「俺のオヤジは1人や」と言って「出ろ!」と言う田村さんを振り切りました。 結局、息子は葬式には参列しませんでした。田村さんはそれが本当に嬉しかったです。 そう、奥さんも娘も息子もそれぞれが一人で考えたということが田村さんの喜びです。 自分で考えてそれを自分で発信できる会社、家庭を作りたいと強く願っています。 もう二度と起きて欲しくはない震災ですが、すべてを転換できたキッカケでした。
君の心も縫ってあげようか? デスノートでね!
どう見ても50歳目前には見えない田村さんは、

“悩みなんかね、本当に大したことないんやわ”
そう言うと、さらに続けて言いました。

“だから、ほっといてもなんともならへんけど、
 絶対になんとかなるように自分でするはずや”

ってね。
神戸市内のセンター街にチラッと行きました。
やっぱり柳ヶ瀬の商店街よりはキレイでした。

でも、私にとっての商店街は柳ヶ瀬です。大きなアーケードがあるんだよ。
この神戸が跡形もなく瓦礫の山になったなんてまったく想像ができません。

田村さんにとっては一つのキッカケでした。しかし、
身内を亡くしたらそうは思えないかもと言いました。

この世の中、なにがあるのか分かりません。しかし、
絶対になにがあっても変わりませんし変われません。

きっと変わったとしても自分じゃなくて方向性だけです。

田村さんは【関学出て鞄職人?】というメルマガを発行しています。
でも、このメルマガに書かれた人物は次々にお亡くなりになります。

だから、メルマガ界のデスノートと呼ばれています。と、
少し前に住民放送でお話しましたが感動する方もいます。

これは田村さんのメルマガを読んで、心を入れ替えた方からのメールです。





鞄職人をやめようと思った方が、デスノートを読んで見事に奮起しました。

田村さんは「鞄自体に想いはないんだ」と私に言いました。
「鞄にこだわり過ぎたら鞄は作れないんだ」と続けました。

いい話だ。でも、今一つ細かく理解できないんで、
これ以上は書けません。あとでまた教えて下さい。

つい先日、死に掛けました。田村さんは喘息で呼吸ができなくなり、
夜中に救急車で運ばれました。それからタバコだけは止めましたが、

お酒は決して止めません。かなりの酒癖です。もう耐えられないんです。
覚えていないでしょうが、1年前に私のズボンにワインをこぼしました。

白いズボンに赤いワインだよ。

本当にありがとうございました。本当に嬉しかったです。請求書を送っておきます。